尾形 杏奈

PROFILE

つくね通信

震災について考える


2024年が始まり、1日に令和6年能登半島地震が発生しました。
地震によって辛い思いをされている方々の不安が少しでも和らぐときがありますよう、お祈り申し上げます。

石川県は、私自身東日本大震災の際に福島から家族で避難していた場所で、思い入れのある大切な場所です。震災当時、石川県の皆さんのあたたかさに本当に救われていました。
今度は自分に何かできることはないか考えてみましたが、なかなかその答えは見つかりません。
ただ、改めて防災について考えたり、東日本大震災を思い出したりするきっかけになりました。

今回のブログでは、東日本大震災のときのことを書こうと思います。

東日本大震災は、私が小学校5年生のときに起きました。
校舎の4階にある教室で、いつも通り帰りのホームルームをしていました。
クラス全体として学期末のテストの結果が良くなかったと、先生が話しているときでした。

突然教室が揺れて、「あ、地震だ」と思ったときには大きな音を立てて校舎がしなりはじめました。
慌てて机の下に潜り込みましたが、机の脚をつかんでいても机が床を滑って移動してしまうほど、大きく横に揺れました。
経験したことのない揺れを前にしたときには、声が出ないんだと知りました。
教室に置いてあったテレビは落ちて割れ、ガラスが飛び散りました。
教頭先生の声が校内放送で流れてきましたが、物が倒れる音や叫び声、揺れの大きさへの驚きで冷静に聞くことはできませんでした。
でも、あまりに長く揺れるので、最後のほうは少し冷静になって、「こんなに揺れる地震なんてテレビでも見たことないし、校舎が倒れてつぶされちゃうのかな、痛いのは嫌だな。6年生の卒業式を見たかったな。」などと考えていました。

ようやく揺れが収まって校庭へ避難しようとしましたが、席の横にあった本棚から落ちてきた教科書や机の上から落ちた道具箱やランドセルに塞がれて、机の下から外には出られない状態でした。出られなくなっていた私に隣の席の子が気づいてくれて、物を除けてくれたのを今でも覚えています。
中には腰が抜けてしまっている子もいて、みんなでお互いを抱きかかえるようにして4階から階段を下っていきました。

校庭に出てからは、親が迎えに来てくれるのをみんなで待っていました。
3月の福島はまだ寒く、雪が舞っていました。
全てを置いて教室を出てきてしまったので、みんなでくっついていました。
連絡も取れず、いつ親が来てくれるのかも分からない時間は本当に長く感じました。
迎えに来てくれた母の顔をみたときは、ほっとして涙が出ました。

家に帰る途中コンビニによって食料を買いました。棚から商品が落ちたコンビニは足の踏み場がありませんでした。
家に帰ってからは倒れているものなどを片付けて、避難する際に必要なものを枕元に置いてみんなでリビングで寝ました。
震災の翌日は、学習センターへ水を汲みに行きました。
そして原子力発電所で事故があったという報道を見て、避難することにしました。
父が単身赴任していた栃木へ向かったのですが、高速道路を通ることができず、10時間かけて移動しました。
当時は原発とは何か、目に見えない放射線とはどのくらい恐れるべきものなのか?分からないことが多かったこともあり、しばらくして、さらに遠くの石川県まで避難することが決まりました。給油できるガソリンスタンドを探しながら車で石川県へ避難しました。

しばらくして福島に戻ったときには、電気や水道などは復旧していました。
ただ、放射線の影響を判断できなかったこともあり、自宅ではない場所に一時的に住むことになりました。

学校が再開しました。
変わったことは、外での体育の授業や運動会、プールの授業がなくなったこと。
転入、転校した友達がたくさんいたこと。
家族旅行は一時避難をかねて県外になり、海水浴へは行かなくなったこと。
校庭や公園には放射線を測定する機械が設置されたこと。
ガラスバッジという放射線測定器が配られ、日々行動記録を記入し、一人一人の被ばく線量が計測されたこと。
給食に出ていた福島県産の牛乳は一時なくなったこと。
天気予報では各地の放射線量が流れるようになったこと…。たくさんあります。


家に置いてあった放射線測定器


石巻でボランティア活動をした際に仮設住宅に住んでいた方が、私を見て、久しぶりにこどもの声が聞こえて嬉しいと言ってくださったことを覚えています。

中学2年生のときには、校内で東日本大震災から1000日の想いという文集が作られました。
健康診断に加え、甲状腺の検査がありました。

高校生になったとき、震災で崩れた高校の校舎が建て替わって新しい校舎ができ、仮設校舎はなくなりました。
東京電力の職員が学校へきて事故についての説明などをした日もありました。

大学2年生の3月、東日本大震災から10年が経とうとしていました。
10年経って、毎年家族で行っていた海や街はどう変わったのか、思い出の場所を訪れました。



この南相馬市にある北泉海水浴場は、毎年夏に家族で海水浴に行っていた場所です。
左側の写真は震災から約1ヵ月後の北泉海水浴場。右が10年後の北泉海水浴場です。
同じ場所のはずなのに、景色が少し変わっただけで、全く別の場所になってしまったような気がしました。


震災から約1ヵ月後の北泉海水浴場


ここは、海水浴の前後にシャワーを浴びたり着替えたりしていた場所です。

いわき震災伝承みらい館へも行きました。
震災の記憶と教訓を未来につなぐことを目的とした施設です。



いわき震災伝承みらい館には、卒業式当日に津波で甚大な被害を受けた、旧いわき市立豊間中学校の黒板に残る寄せ書きや学習机が現物展示されています。

ほかにも、津波の映像展示や防災グッズの体験型展示などがありました。
展示を見て震災の恐ろしさを感じると同時に、恥ずかしながら震災が起きたときのことを具体的に考えず、何も備えができていない自分に気が付きました。
心のどこかにある、「もうあんな経験はしたくない。」という思いを、「生きている間に東日本大震災ほどの大きな震災なんて起きないのではないか、きっとそうだ。」という願望に似た決めつけにすり替えて、10年間震災と向き合ってこなかったのだと思います。

そんな自分に気づいてからは、防災士の資格をとって災害について学んだり、日持ちする食品をローリングストックしたり、お風呂のお湯は一旦ためておくようにしたりと、自分なりの防災を日常に取り入れるようになりました。

ここ東海地方は、南海トラフ地震がいつか起きるといわれています。
いつか起きるということは、今起きてもおかしくないということです。
どれだけ備えをしても、自然災害からすべてのものを守ることは難しいですが、日頃から備えや知識を蓄えることで、守れるものは必ず増えます。日ごろから備え、確認しておくことが大切です。
私も知らないことが沢山あるので勉強します。

長くなってしまいましたが、このブログが災害や防災について考える時間が増えるきっかけに繋がったら幸いです。
ここまでの長文を読んで下さりありがとうございました。