難病の左腕 甲子園のマウンドに立つ
2ヶ月前のこと。
奇跡が起きた。いや奇跡を起こした。
愛工大名電の柴田章吾投手3年生、背番号10。サウスポー。
「イチローや工藤公康に負けない素質」と倉野光生監督は言う。三重県大安町(現いなべ市)出身。小学2年の時に野球と出会い、6年の時に全国制覇。中学3年の時に世界大会の日本代表に選ばれた。順風満帆に見えた野球人生。しかし、その世界大会を前に、柴田少年を病魔が襲う。
ベーチェット病、発症。
ベーチェット病は、国の難病に指定されていて、口の中や皮膚、腸などに炎症を引き起こす原因不明の病。失明に至るケースもあると言われ、国内に1万8000人の患者がいるとされる。
柴田君、中学3年の春。40度の高熱、お腹が焼けるように痛み、立っていられなかった。病名を告げられた。
「全く意味が分からなかった」。日記にこう記した「今までどおりの練習を、野球をやったら死ぬかもしれない、といわれた。死ぬってどんなんだろう。痛いのかな。死ぬなんて怖いよ・・・」。
柴田君は病魔と闘った。3度の入院。お母さんに「『病気、ありがとう』と思えば治るんじゃない?」と言われれば、何度も「ありがとう」とつぶやきお腹をさすった。「笑っていたら治るんじゃない?」と言われれば、とにかく笑って過ごした。
野球を諦めようと思ったこともあった。
でも、何度考えても頭の中に最後に残ったのは野球だった。多くの野球の名門校が柴田君獲得から手を引く中、名電の倉野監督は「柴田君の変わりはいない」と手を差し伸べた。強豪の練習についていけるのか、不安もあった。
15歳の春。名電入学の決意をした柴田君は、主治医に誓った。
「僕が甲子園のマウンドに立てたら、同じ病気の人に夢や勇気を与えることが出来る。この病気の代表として頑張ります」。
愛工大名電野球部47人の部員は、全員が春日井市内の合宿所で暮らす。
監督の妻・洋子さんが柴田君の為の食事を作ってくれた。体調が思わしくなく練習に参加できない時も、チームメイトはいつもと同じ様に接してくれた。体調は浮き沈みを繰り返した。チームは2年連続甲子園出場。先輩たちの晴れ舞台をスタンドから見つめた。
七夕の短冊には「最後の夏は甲子園に行けますように」と書いた。
そして迎えた3年生最後の夏。
間に合った。
愛知大会決勝のマウンド。9回2アウト。最後のバッター。レフトへの飛球。斉木選手のグラブに納まる。一瞬の静寂の後の大歓声。柴田君は、支えてくれたナインの手に包まれた。
3年前の春、主治医との約束。両親、監督、チームメイト、マネージャー、仲間の支えがあって果すことが出来た。
「中学3年の時のことを思うと、甲子園に出られるなんて奇跡です」そう本人は言う。
3年間思い続けた。「夢や勇気を与える」のだと。
今も毎日、薬を飲む。柴田君本人も病気と戦っている。
しかし、「同じ病の人のために」柴田君は投げた。
全国が見つめる甲子園のマウンド。
自分の力で奇跡を起こした。
柴田君の投じる白球は夢と勇気をまとい、森君のミットに収まった。
試合後、思いっきり泣いた柴田君、
あのはにかむような笑顔に戻ってこう誓った。
「これからも野球を続けます」。
勇気を与え続ける。