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放送内容

2006年3月7日増山たづ子さんが突然、この世から去った。増山さんはひたすら、ふるさと徳山を記録し続けた。それは写真だけではなかった。ふるさとの「音」も記録していた。ダムの是非を巡って村人たちが語り合う声やカジカカエルの鳴き声、そして村人の歌声や笑い声。カセットに残されたふるさとの「音」だ。
増山さんは10万枚以上の「写真」を残して逝ってしまった。ダムを恨んでもダムで働く人々を暖かい目で見守ってきた。お国のために戦争で夫や弟を失い、さらにダム建設でふるさとさえ奪ったのに、最後まで『お国のために』文句を言わなかった。
今年、徳山ダムに水が貯められようとしている。しかし今なおかつて家のあったふるさと・徳山で暮らし続ける人がいる。ふるさとへの思いが強ければ強いほど、老いれば老いるほどふるさとへの憧れが募る。増山さんは「ふるさとは心の宝」と語り、必死でふるさとを語り継いできた。しかし自分の子どもや孫たちには、そんな思いをさせたくないと考えていた増山さん。自分の子どもたちのふるさとは徳山ではなく転居先のこの場所で充分。徳山は忘れてもいい、と考えていた増山さん。これまで私たちは増山さんを通して徳山村を伝えてきた。しかし、増山さんの心の叫びを本当に伝えてきたのだろうか・・・。これまでの記録を重ねながら、今あらためて取材を行い増山たづ子さんの思いを確かめます。
スタッフのつぶやき
ディレクター:海老名敏宏
増山たづ子さんと出会ってから16年になる。Let'sドンキホーテで何度も遊び、いろんな暮らしの知恵も教えていただいたし、それをきっかけに、いくつものドキュメンタリーを作った。家にも泊まっていただいたし、山形には2度も旅行をした。増山さんの訃報は耳を疑った。10日前にも長々と電話でお話させていただいた。話は徳山の人たちの話。何度も聞いた話だけれど、それでも何かを訴えたかったのかもしれないと思った。
私は、増山さんの本当に伝えたかったことを伝えてきたのだろうか。ただただひょうきんな姿の増山さんを記録してきたに過ぎないのかもしれない。そんな思いが突然湧いてきた。「増山さんが本当に伝えたかったもの?」即座に答えられない自分がいた。
増山さんは、出会った人たちに実に数多くの写真と手紙を送っていた。もちろん、私にも何通も来ている。筆で何枚もの便箋を重ねる。増山さんからいただいた写真だけで何冊ものアルバムがある。
ふるさと徳山を愛しながら、ダム建設に反対しなかったのはなぜ?なぜダムの完成を待ち望んだのか?写真の記録はお国のために戦場で散った夫や弟のため、というのは本当の言葉なのか?
増山さんと交流のあった人たちにたくさん会った。ダム推進派も反対派も増山さんは徳山村の象徴だった。ふるさとは景色の中にあるのではなく、人の心にあることがようやく分かってきた。ダムによってふるさとの人々の心が汚れていくことを一番いやがった増山さんがいたことを忘れていた。増山さんは誰よりも人々の幸せを願った人だった。