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2007年3月28日(水) 深夜2時28分~3時23分放送 |
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切り捨てられた被爆
~ 原爆症認定訴訟の行方 ~ |
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ディレクター 安藤 則子
「被曝線量0」…原爆症認定集団訴訟の原告、甲斐昭さんについて厚生労働省の認定審査会が推定した被曝線量です。甲斐さんは、1945年8月6日、原爆が落とされた広島市に、およそ20km離れた村から、軍の命令で駆けつけ、救護活動などをしました。爆発のあとに市内に入った「入市被爆者」です。長崎市の爆心地から3.1km離れた造船所から、爆心地からおよそ600mの地点まで入った中村昭子さんの被曝線量も、審査会は0としています。この数字を国が裁判所に提出した準備書面に見つけたとき、正直、私は目を疑いました。子どもの頃から読んだり聞いたりしていた話、肉親さがしであとから市内に入った人や、救護活動をした医師たちにも原爆症で亡くなった人たちがたくさんいたという証言とあまりに食い違うからです。なぜ、0なのか…‥取材を始めて、投下から60年以上たった今も、原爆の恐ろしさの多くが解明されていないということを、具体的に知ることになりました。 原爆の放射線は爆発から1分以内に出された初期放射線とそのあとの残留放射線に分けられています。大部分が解明されているのは初期放射線だけです。しかし国の認定審査の基準では、初期放射線と初期放射線によって誘導放射化された土砂などから出た残留放射線の影響しか省みられていません。黒い雨や、内部被曝の問題は、甲斐さんたち入市被爆者が訴えを起こすまで、これほど大きな問題として議論されることはありませんでした。 私は、2004年の夏から、甲斐さんを中心に原爆症集団訴訟を追いかけてきました。被爆国のマスコミとして原爆の問題を広く伝えることは使命であるとして、厚生労働省に取材を申し込んだ時のことです。担当者は、私が嘘を言っていると言いました。原爆症の認定申請ができるのは、被爆者健康手帳を持ち、なおかつ今治療を必要としている病気を抱えている人だけです。その数は限られており、「広く」伝えることにはならない、多くの人の関心を呼ばないというのが、担当者の考えでした。 原爆症認定の問題は、限られた被爆者の問題だけでしょうか。核保有国と核兵器は増え続けています。原爆被害の大きさを正しく見つめなおすことは、私たちと次世代に関わることです。そして、認定基準の基のデータは、私たちが生活する上での安全基準につながっています。 原爆症認定集団訴訟の原告の平均年齢は75歳、判決を聞くことができずに亡くなった人は31人にのぼりました。高齢の被爆者のみなさんが命がけで訴えようとしている姿をぜひごらんいただきたいと思っています。 |
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