- 158回 -
2015年5月24日(日) 深夜2:14~3:19
奪還 ~英雄の妻 佐々木敦子の70年~
メ~テレは日中国交正常化前から新生中国の単独取材が許可され、貴重な映像が数多く保存されている。そのきっかけとなった1971年3月、名古屋市にある愛知県体育館で開催された「世界卓球選手権大会」。
東西冷戦の時代、断絶していた中国とアメリカが手を取り合うきっかけとなった、いわゆる「ピンポン外交」の立役者。卓球の世界選手権を3連覇し、建国間もない中国に夢と希望をもたらした荘則棟(そうそくとう)。当時、中国の人々は彼を「民族の英雄」と讃えた。
その荘と、この時名古屋で出会い、のちに妻となった佐々木敦子さん。敦子さんは1944年に当時の満州で生まれた。そして、終戦後も獣医だった父親が家畜の伝染病の研究のため家族で中国に残ることになり、未開の中国西域に移り住んだ。そののち父親が亡くなり、敦子さんは22歳ではじめて日本で暮らすことになる。しかし、敦子さんは祖国での暮らしに馴染めず、心は中国を求めていた。そんな時に、名古屋で「世界卓球選手権大会」が開かれ、中国選手が参加することがわかり、たまらず、名古屋へ列車で向った。選手のいるホテルを訪ねた敦子さん、たまたま応対したのが荘だった。
荘からは「日中友好に貢献を」と言葉を掛けられ、敦子さんは大手商社の中国駐在員となり、日中貿易を担当した。
荘はのちにスポーツ大臣にまでなっていたが、中国は指導者の毛沢東が亡くなり、それまで権力を握っていた「四人組」が失脚。荘は「四人組の協力者」とみなされ4年間、監禁され、その後、地方へ追放された。
敦子さんは、荘の境遇を知り、北京で荘と再会した。そして荘を何とか救おうとし、いつしか2人は恋に落ちた。しかし、中国政府は2人の結婚を認めなかった。
大きな犠牲を払い結婚した2人、20年以上は幸せな日々が続いた。しかし、2013年に荘がガンで亡くなった。そして、中国当局はかつての「英雄」の葬儀を禁ずると告げてきた。
英雄とその妻の波乱万丈の人生。その闘いの人生を辿った。
東西冷戦の時代、断絶していた中国とアメリカが手を取り合うきっかけとなった、いわゆる「ピンポン外交」の立役者。卓球の世界選手権を3連覇し、建国間もない中国に夢と希望をもたらした荘則棟(そうそくとう)。当時、中国の人々は彼を「民族の英雄」と讃えた。
その荘と、この時名古屋で出会い、のちに妻となった佐々木敦子さん。敦子さんは1944年に当時の満州で生まれた。そして、終戦後も獣医だった父親が家畜の伝染病の研究のため家族で中国に残ることになり、未開の中国西域に移り住んだ。そののち父親が亡くなり、敦子さんは22歳ではじめて日本で暮らすことになる。しかし、敦子さんは祖国での暮らしに馴染めず、心は中国を求めていた。そんな時に、名古屋で「世界卓球選手権大会」が開かれ、中国選手が参加することがわかり、たまらず、名古屋へ列車で向った。選手のいるホテルを訪ねた敦子さん、たまたま応対したのが荘だった。
荘からは「日中友好に貢献を」と言葉を掛けられ、敦子さんは大手商社の中国駐在員となり、日中貿易を担当した。
荘はのちにスポーツ大臣にまでなっていたが、中国は指導者の毛沢東が亡くなり、それまで権力を握っていた「四人組」が失脚。荘は「四人組の協力者」とみなされ4年間、監禁され、その後、地方へ追放された。
敦子さんは、荘の境遇を知り、北京で荘と再会した。そして荘を何とか救おうとし、いつしか2人は恋に落ちた。しかし、中国政府は2人の結婚を認めなかった。
大きな犠牲を払い結婚した2人、20年以上は幸せな日々が続いた。しかし、2013年に荘がガンで亡くなった。そして、中国当局はかつての「英雄」の葬儀を禁ずると告げてきた。
英雄とその妻の波乱万丈の人生。その闘いの人生を辿った。