<後編>「こうすればよかった」 被災者の声「1日前プロジェクト」

2024/09/22

「1日前プロジェクト」は、内閣府が行っている防災プロジェクトです。被災者の方に「災害の一日前に戻れるとしたら、あなたは何をしますか」と問いかけます。その答えには、学ぶことがたくさんあります。東日本大震災の時の体験から抜粋して後編を掲載します。

旅館での避難者名簿が家族の再会に一役

「はーい」と手を挙げてくれたときはうれしかった

※文章・イラストは内閣府の「1日前プロジェクト」HPから
※肩書き、年齢はアンケート当時のものです
※「1日前プロジェクト」のHPの情報は、多彩で学ぶ点がたくさんあります。「内閣府+1日前プロジェクト」で検索してみて下さい。

【福島県相馬郡新地町 旅館経営 60代女性】

私が経営する旅館は高台にあるため、地震直後から次々に避難者が押し寄せてきました。ガス・電気・水道が幸いにも無事だったので、2日間はとにかく避難者の受け入れと食事の確保に必死でした。

避難者の名簿づくりを始めたのは地震2日後の3月13日。「うちの娘来てない?」「おじちゃん、いないかしら」と、次々に家族を探す人が現れたのを見て、「これはいけない」と名簿づくりを始めたのです。

お名前や住所を書いていただくと、意外にも遠方からの避難者も多いことがわかりました。記入してくださったのは13日だけで60〜70人。11、12日はもっといたかもしれません。出張で福島を訪れ帰れなくなったサラリーマングループ、旅行で来ていた御夫婦などもいました。

名簿にあったお名前をある避難所で叫んでみたら、その方のおばあちゃんが「はーい」と手を挙げてくれたときはうれしかった。この名簿によってたくさんの人たちの所在がわかり、家族の再会に結びついたこともありました。

地震直後の情報のない中で、離ればなれになってしまった御家族の心中を察すれば、もっと早く名簿を作ればよかったと思います。そこまで思いが至らなかったことを、お客様の命を預かるホテルの経営者として反省しています。これから、緊急マニュアルに名簿作成の一項を加えていきます。

備えのない一人暮らしを反省

もし一日前に戻れるなら、缶詰等の食料を買っていた

【仙台市宮城野区 会社員 30代男性】

仕事中に地震が発生。事務所内はありとあらゆるものが倒れてきましたが、けが人もなく、全員無事でした。その後、外に出ていた社員の安全と田舎の両親に無事なことを報告、幸いにもタイミングが良かったのか、メールで連絡をとることができて一安心。

その後は一人暮らしの寮に戻りましたが、メチャメチャな状態…。一人暮らしの寮住まいのため、普段は自炊を全くせず、毎日の食事は外食とコンビニで冷蔵庫の中はカラ状態が当たり前でした。

田舎の両親に物資の発送をお願いしようとしましたが、震災発生直後は、宅配便も動かなかったため支援物資も届かず、スーパーもコンビニもダメ…。大変な思いをしました。

今回の震災で食料の大切さを感じました。もし一日前に戻れるなら、缶詰等の食料を買っていたと思います。

被災地では携帯電話は繋がらず~他の連絡手段を決めておこう~

携帯電話以外での安否確認は家族内で絶対に決めておくべき

【仙台市太白区 30代 女性 会社員】

震災当日はちょうど外に出ていて仕事をしていました。地震が起こり、立っていられないほどの揺れで地面に倒れてしまいました。その後、家族と連絡を取る事すらできず、どこで何をしているのかと心配しましたが、携帯電話を命綱として使用している現代人は、何かが起こった時に脆いものだと知りました。

私の会社のある場所では、使用している携帯電話は繋がったのですが家族のいる場所では全く繋がらず、連絡がつかない状況でした。緊急時の連絡先を家族で話し合っておけば、もっと早くに安心できたかもしれません。

真っ暗闇の中を車で走りながら、そんな事を思ったのを覚えています。いざというときの、携帯電話以外での安否確認は家族内で絶対に決めておくべきだと痛感しました。


五十嵐 信裕

東京都出身。1990年メ~テレ入社、東日本大震災では被災地でANN現地デスクを経験。報道局防災担当部長や防災特番『池上彰と考える!巨大自然災害から命を守れ』プロデューサーなどを経て、現ニュースデスク。防災関係のNPOの特別研究員や愛知県防災減災カレッジのメディア講座講師も務め、防災・減災報道のあり方について取材と発信を続ける。日本災害情報学会・会員 防災士。

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