研究コーナー

スポーツにまつわる伝説や言い伝え、些細な疑問までを徹底検証します。

205

「ケイリン銅メダル 永井清史」

2008/09/20放送

1896年、第一回アテネオリンピックから採用された、自転車競技。
しかし、日本男子は過去に3つしかメダルを獲得していない。

そこに2000年のシドニーから自転車競技に加わったものがある。
「ケイリン」。
名前から分かるように、日本の「競輪」を基にして作られた競技だ。
しかし過去2回、この競技で日本勢は、決勝にも残ることが出来ていない。

そんな中、北京オリンピックで悲願のメダルをとった男がいた。
日本人初の銅メダリストとなった、岐阜県美濃市出身の、永井清史。

「ケイリン」と「競輪」。
実は同じようで、全く別なものだった。
自転車のフレームは、オリンピックがカーボン、国内が鉄。
バンク角度は45度と35度、その他、一度に走る人数、戦術なども異なってくる。
それが、日本が今までメダルをとることが出来なかった原因でもある。

今回、その「ケイリン」に臨んだ永井には、4年前の忘れられない出来事があった。

2004年、アテネオリンピック。
ナショナルチームに入っていた永井は、国際大会で実力を発揮し、自転車競技「チームスプリント」の出場枠を日本にもたらした。
しかし、土壇場での、オリンピック代表選手選考漏れ。
「出場枠をとった自分が、なぜ代表から外されるのだ・・・」
永井は、大きなショックを受けた。

そして今回、その恨みを晴らすかのように臨んだ北京。
もちろん狙うのは、日本人初となる「メダル」だ。
永井は本業である競輪を、半年も休んでトレーニングに打ち込んだ。
競輪を続けながら、国際大会に出ることが出来るスケジュールが組まれていたにも関わらずだ。

収入は激減・・・貯金を切り崩した。
くじけそうにもなった・・・同郷の選手たちに励ましてもらった。
外国人選手に立ち向かえない・・・まるでサイボーグのような体に作り変えた。

そして、悲願の「銅メダル」。
永井の、そして支え続けてきた人たちが一丸となってもたらした、日本初のメダルだ。

帰国後の永井。
このあと行われる、日本最高賞金のグランプリ出場も決まった。

「まずは日本の競輪で一番になりたい。
そしてロンドンはもちろん金メダル」
ふだん寡黙な男は、こう言い切った。


バックナンバー