<前編>「こうすればよかった」 被災者の声「1日前プロジェクト」【暮らしの防災】

2024年9月1日 14:01
「1日前プロジェクト」は、内閣府が行っている防災プロジェクトです。被災者の方に「災害の一日前に戻れるとしたら、あなたは何をしますか」と問いかけます。その答えには、学ぶことがたくさんあります。今回は、東日本大震災の時の経験から抜粋して掲載します。

何度でも逃げてほしかった

2日前には逃げたのに…
※文章・イラストは内閣府の「1日前プロジェクト」HPから
※肩書き、年齢はアンケート当時のものです
※「1日前プロジェクト」のHPの情報は、多彩で学ぶ点がたくさんあります。「内閣府+1日前プロジェクト」で検索してみて下さい。

【岩手県宮古市 建設会社社長 50代男性】

 震災の2日前の3月9日に三陸沖で地震が発生し、津波注意報が出されました。宮古の沿岸に住む80歳を超える私の叔母は、その注意報を聞いて逃げています。逃げたけれども、そのとき津波は50センチしか来なかったのです。

 私が一番ショックなのは、9日に逃げているのに、11日には逃げなかったという事実。「この間とは違うから」と言っても、頑として言うことを聞かず、説得していたお嫁さんともども亡くなってしまったのです。

 震災のあの日、地元のラジオ局は、地震発生後に気象庁が発表した「14時46分津波の第一波観測、大船渡で20センチ」を放送しています。その低い観測値を聞いたから逃げなかったという話もありますが、私はそういうことではないと思います。

 海の近くで大きな揺れを感じたら、何度でも逃げてほしかったなと思っています。
 

できる人がやるしかない

できる人がやるしかない~津波の合間に必死の救助~
【岩手県釜石市仮設団地 60代男性】

 テレビでよく映像が流れますが、映像で見る震災の状況と、実際に肌で感じる臭いであったり、風であったり、音であったりというものとは、全然違うわけですよね。泣き叫んでしゃがんで立てない人もいたけれど、みんな自分がどうするかが先決で、それをかまってやれない状況でした。

 人が流されているのを上から見て、「電柱なり、ポールなりにとにかく捕まれ!離すな!離すな!」と言っておいて、波が引いて行った時に降りて行きました。いつまた津波が来るか分かんないから、こっちは早く助けに行こうとあせるけど、膝の高さまで水があったら身体をもっていかれちゃう。

 やっとたどり着いても、物にすがっている人は、手を離せと言っても硬直しちゃって離せない。もう水を含んでいるから重いでしょ、二人ぐらいで抱き上げて助けました。

 次に大きな波が来た時、さっき人を助けていた時に来ていたらどうなったんだろうと思ったけど、その波が引くと、だまって見ていられないんです。感謝もなにもあの時はそれが当たり前でしたし、足がすくんで助けに行けない人が悪いんじゃないんです。できる人がやるしかない、誰を恨むかじゃなしにね。

 自分たちはこの震災で全てをなくしてしまって、ゼロどころか、マイナスからのスタートになっちゃった。じゃ、その気持ちをどこにぶつけるかといっても、ぶつける場所がないんですよね。自然しかないんです。あとは自分たちがこれからどうしようと考えるしかないんです。

    ◇

 被災地取材やNPO研究員の立場などから学んだ防災の知識や知恵を、コラム形式でつづります。

■五十嵐 信裕
 東京都出身。1990年メ~テレ入社、東日本大震災では被災地でANN現地デスクを経験。報道局防災担当部長や防災特番『池上彰と考える!巨大自然災害から命を守れ』プロデューサーなどを経て、現ニュースデスク。防災関係のNPOの特別研究員や愛知県防災減災カレッジのメディア講座講師も務め、防災・減災報道のあり方について取材と発信を続ける。日本災害情報学会・会員 防災士。
 

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