家族の支えでつかんだ世界一「ワンハンドキャッチ・ワンハンドスロー」 もうひとつのWBC・障害者野球

2023年9月13日 18:43

義足や片腕などでプレーする「世界身体障害者野球大会」で日本代表が2大会連続で世界一に輝きました。快挙の裏には、情熱と努力、そして家族の支えがありました。

日本が13年ぶりの優勝

 世界5つの国と地域が集まり、バンテリンドームで開催された「もうひとつの、WBC」。

 地元・名古屋のチームからは5人が日本代表に加わり、見事、連覇を達成。その舞台裏を、追いました。

 

(左)名古屋ビクトリーの選手たち

「とにかく野球が好き」

 8月中旬。肌を刺すような日差しのもと、グラウンドで汗を流しているのは愛知県唯一の障害者野球チーム「名古屋ビクトリー」の選手たち。

 小学生から50代まで。年齢も障害の程度も様々なメンバーですが共通しているのは、「とにかく野球が好き」ということ。

「足を切った時に、医者の先生に『野球やりたいからそれ用の義足を履くように手術してね』って言って。野球は生活の一部」(名古屋ビクトリー 増田和己 選手)

 軟式のボールを使い、盗塁や振り逃げは禁止。走塁が困難な場合は、打者にも代走が認められているなど障害者野球には一部で独自のルールがありますが、練習試合では、健常者と互角に戦うことも。

「みなさん楽しそうにやっているので、ハンディを抱えながらも工夫して、僕たちと同じようなプレーをしているので尊敬します」(練習試合の相手チーム)

 

日本代表 宮下拓也 選手

「将来の夢、史上初の人工関節を入れたプロ野球選手」

 そんな名古屋ビクトリーから、日本代表が5人選ばれました。

 キャッチャー、宮下拓也選手。左脚には、人工関節が入っています。

「左足が15歳の時に骨肉腫になって、骨を取り除いて人工関節に」(日本代表 宮下拓也 選手)

 強肩を武器に、プロの世界を目指していた中学3年の秋でした。

「愛工大名電に野球の推薦で入る予定でした。これから甲子園出て、プロ野球選手に…ってところで病気(骨の)癌だって言われました」(宮下拓也 選手)

 しかし、夢はあきらめませんでした。

 中学校の卒業文集には「将来の夢、史上初の人工関節を入れたプロ野球選手」と書かれていました。

 高校、大学の野球部でコーチなどを務め、卒業後は神戸市にある障害者野球チームで活躍。世界大会への出場は、2回目となります。

「野球は人生の中で一番楽しめる、好きなことなので、病気や障害に負けないように楽しんでやりたい」(宮下拓也 選手)

 そんな宮下さんには4歳の息子と1歳の娘がいます。

「野球したいと思ったら、キャッチャーしたい」(宮下選手の息子 千昊くん)

「野球やっているときは息子が『パパかっこいい』って言うので、これからくじけそうになった時に、パパは走れなくても頑張っていたんだなって何かしら考えるきっかけになってほしい」(宮下選手の妻 佳都さん)

 

日本代表 藤川泰行 選手

「障害者の野球があったのは大きい」

 そんな宮下さんとバッテリーを組むのが、左のエース、藤川泰行投手。

 幼い頃から野球に打ち込み、名門、東邦高校に進学。しかし大学時代に、バイク事故で左脚を失いました。

「障害者の野球があったっていうのが大きい。JAPANに選出されて世界一になるなど高い目標があったので頑張れた」(日本代表 藤川泰行 選手)

 

日本代表 田中清成 選手

「同じ義足の人に見せたい」

 セカンドの田中清成選手。交通事故で左足をひざ下から失いましたが、全力プレーで魅了します。

「自分みたいに頑張ればなれるよって。同じ義足の人に見せられるかなと思う」(日本代表 田中清成 選手)

 

日本代表 飼沼寛之 選手

守備や走塁、バッティングで足を生かしたプレーが持ち味

 外野の守備の要、飼沼寛之選手。生まれつき、左手の指がありません。

「みんなから足が速いといわれるので、守備や走塁、バッティングで足を生かしたプレーが持ち味かなと」(日本代表 飼沼寛之 選手)

 

日本代表キャプテン 松元剛 選手

「ワンハンドキャッチ・ワンハンドスロー」

 そして、日本代表のキャプテンを務めるのが松元剛選手。練習には家族も駆けつけ、プレーを見守ります。

「これ(お守りを)作りました。私もできることあるかなって考えて、作らなきゃって」(松元選手の妻 真弓さん)

Q.お父さんのプレーはどうですか
「照れくさいですけど、かっこいいです。日本背負ってキャプテンで、なかなかいないですよね、こんな親父は」(松元選手の息子 魁星さん)

 松元選手の守備を見てみると、右手でキャッチしたボールを、そのままトス。素早くグローブを外してボールをつかんで投げる「ワンハンドキャッチ・ワンハンドスロー」です。

「まだまだ修行中です。49歳ですけど」(日本代表キャプテン 松元剛 選手)

 

第1回世界身体障害者野球大会(2006年)提供:日本身体障害者野球連盟

挫折と苦難を乗り越えて

 23年前、松元さんは、勤務する鉄道会社で感電事故に遭い左手と、右手の中指・人差し指を失いました。

「この先どうやって生きていけばいいか不安でいっぱいでした。ずっと腐っていた。恥ずかしながら妻にも親にもだいぶきついことを言った」(日本代表キャプテン 松元剛 選手)

 事故の前、打ち込んでいた野球に松元さんを再び引き込んだのは、2006年に開催された、初の世界大会でした。

「指が残り3本になっちゃってできないかなと思っていたが、僕も同じ舞台に立ちたいと、障害者野球に入った。(野球は複雑な動きもあるが)大変だなって感覚ではなく、それをクリアしていくのが楽しくもある。できるプレーが増えると楽しい」(日本代表キャプテン 松元剛 選手)

 職場の先輩はーー

「試行錯誤しながら悩みながら、好きな野球をやれるように頑張ってきた。生きるモチベーションが見つかったのはよかった。うちわも作ってみんなで応援に行こうという感じ」(職場の先輩 大口英昭さん)

 代表への選出は13年ぶり。大きな期待を背に、世界の頂点を目指します。

「チームのみんなが思い切ったプレーができるようなチームの雰囲気づくりを一番の目標にしている。目標の連覇。全勝優勝で行けると思います」(日本代表キャプテン 松元剛 選手)

 

宮下拓也選手がランニングホームラン

初戦の相手は韓国代表

 迎えた、世界大会当日。

「いま、生きていること、いま野球ができる喜びを感じ熱くプレーすることを誓います」(松元選手の選手宣誓)

 5つの国と地域が総当たり戦で、優勝を決めます。

 スタンドには松元さんの職場のメンバーが応援団を結成。選手を盛り立てます。

 初戦の相手は韓国代表。先発は名古屋が誇るエース、藤川泰行選手です。

 早くも1回から試合が動きます。3番、宮下選手の第一打席。

 高々と上がった打球は、レフトの頭上を越える特大の当たり。そして代走は飼沼選手。快足を飛ばし、なんとランニングホームラン。

「僕が走っていたら、3塁で止まっていたので。そこが(障害者野球の)魅力を出せてよかった」(宮下拓也 選手)

「泣きそうでした。泣きました。頑張った。報われた」(宮下選手の妻 佳都さん)

 この1点をきっかけに日本は勢いづき、韓国に勝利しました。

 

悲願の連覇、世界一に

最終戦の相手は強豪アメリカ

 そして続く2試合も勝利し、3連勝で迎えた最終戦の相手はアメリカ。前々回に優勝した強豪です。

 名古屋の選手は全員がスタメン。松元剛選手は9番、ショートで出場します。

 日本は1回、田中さんのヒットもあり、幸先よく2点を先制。

 盛り上がるスタンドの中、祈るような思いでグラウンドを見つめていたのは松元さんの妻、真弓さんです。

「一本打って欲しい。歓声をみんなで上げたい」(松元選手の妻 真弓さん)

 大会を通じて、ここまで無安打の松元さん。迎えた第2打席。片手で振り抜いた打球はサードへ。相手のエラーもあり出塁しました。

「1本ね。なんでも塁に出られればいいです」(松元選手の妻 真弓さん)

 4対0と日本がリードしたまま、アメリカの最後のバッターを迎えーー

 三振でゲームセット。悲願の連覇を、圧勝で飾りました。

 

日本代表キャプテン 松元剛 選手の胴上げ

日本が13年ぶりの優勝

 13年ぶりの優勝。日本代表キャプテンの松元剛選手が夫婦で抱き合う姿もーー

「この年齢にしてよくここまで動けているなと思って感動しました。事故が起きた当時はこんな未来が待っているとは思わなかった」(松元選手の妻 真弓さん)

「うれしいのとほっとしたのと。みんなに感謝しています。スポーツは素晴らしいなと改めて思います」(日本代表キャプテン 松元剛 選手)

(9月13日15:40~放送メ~テレ『アップ!』より)

 

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