童門冬二さんが敬愛した上杉鷹山の師・細井平洲 現代のリーダーにも通じる教え

2025年2月19日 11:32
多くの歴史小説で知られる作家の童門冬二さんが96歳で亡くなりました。童門さんの代表作といえば「小説 上杉鷹山」。童門さんは、鷹山の師だった細井平洲にも深い敬意を寄せていました。現在の愛知県出身の平洲の教えは、現代のリーダーシップにも通じるといいます。

童門冬二さんと細井平洲。名鉄太田川駅前の東海市芸術劇場2階「嚶鳴広場」で紹介されている(愛知県東海市)

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」

 この有名な言葉を残した上杉鷹山(1751~1822)は、江戸時代の米沢藩(現在の山形県米沢市など)を立て直した「中興の祖」として知られています。

 童門さんが1983年に刊行した「小説 上杉鷹山」(学陽書房)はベストセラーになり、企業経営や行財政改革の参考書としても高く評価されました。
 

細井平洲の肖像画。70歳の時と伝えられる(愛知県東海市・平洲記念館蔵)

鷹山14歳から教えを授けた細井平洲
 上杉鷹山(治憲)は17歳で米沢藩主に就きましたが、その前に教えを受けていたのが、細井平洲(1728~1801)です。

 平洲は尾張藩の知多郡平島村(現在の愛知県東海市)で農家の次男として生まれ、幼い頃から学問に秀でて名古屋や京都、長崎で学び、24歳の時に江戸に出て、私塾「嚶鳴館」(おうめいかん)を開いて多くの人材を育てました。

 西条藩(愛媛県)や人吉藩(熊本県)、紀伊藩(和歌山県)などに招かれ、37歳の時に当時14歳だった鷹山の師に迎えられました。

 鷹山と平洲との師弟の交わりは終生続いたといわれています。
 

東海市立平洲記念館。細井平洲の書画などが展示されていて、童門冬二さんが名誉館長を務めた(愛知県東海市荒尾町)

童門さんは「平洲記念館」の名誉館長
 愛知県東海市は、名古屋駅から名鉄常滑線で南に約30分。日本製鉄や愛知製鋼、大同特殊鋼などの工場が臨海部に立ち並び、中部圏最大の鉄鋼基地として知られています。

 東海市民にとって細井平洲は郷土の誇りで、小中学校でも広く教えられています。

 童門さんは、東海市にある「平洲記念館」の名誉館長を2005年から務め、晩年に体調を崩すまで毎年のように訪れて市民に講演していました。

 平洲記念館の学芸員、宮澤浩司さん(45)は「童門さんはたくさんの偉人の本を書きましたが、平洲先生をとても大事にしてくれていました。多くの市民に、平洲先生の教えをとてもわかりやすく説明してくれたことが忘れられません」と惜しみます。
 

童門冬二さん直筆の色紙。細井平洲が唱えた「恕」と書かれている(愛知県東海市の平洲記念館)

細井平洲の4つの教え
 細井平洲の教えとは、どのようなものだったのでしょう。

 宮澤さんによると、平洲の代表的な教えは四つ挙げられます。

1. 先施(せんし)の心
2. 学思行(がくしこう)相まって良となす
3. 勇なるかな勇なるかな 勇にあらずして何をもって行わんや
4. 「恕」(じょ)のこころ

 「先施」とは、自ら行動するということ。相手から働きかけられるのを待つのではなく、自分から進んで相手に働きかけることが、相手の心を動かすのだと説きます。

 「学思行」は、学問とは知識を得るだけではなく、よく考えて、実行することが伴わなければならないということです。

 「勇なるかな」は、若き鷹山が藩主として初めて米沢に入る時、平洲が贈った言葉です。「大事なことはすべて教えました。あとは勇気です。信じることを勇気をもって実践してください」という思いが込められています。

 「恕」とは孔子の「論語」にある言葉で、常に相手の立場でものを考える、やさしさと思いやりです。童門さんは色紙にサインを求められると、この言葉をよく記していました。

 宮澤さんは「童門さんは、『恕』は日本人の心だと話していました。童門さんご自身も温厚で気遣いにあふれた方で、『恕』の精神を体現される方でした」と振り返ります。
 

細井平洲の講義をまとめた「嚶鳴館遺草」。吉田松陰や西郷隆盛も愛読したといわれる(東海市立平洲記念館蔵)

吉田松陰、西郷隆盛にも影響
 平洲自身はほとんど著書を残しませんでしたが、江戸での様々な講義の記録が「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」という6巻の本にまとめられ、後世に伝えられました。

 平洲記念館によると、明治維新の立役者だった吉田松陰や西郷隆盛も、これを読んでいたことが記録に残されているそうです。

 西郷隆盛が遺した言葉でよく知られる「敬天愛人」には、平洲の教えの影響がみられるといいます。
 

童門冬二さんは、上杉鷹山と師の細井平洲、鷹山の兄の秋月鶴山(高鍋藩主)を3部作として描いた(東海市立平洲記念館)

現代のリーダーへの教訓
 童門さんは「完全版 細井平洲」(PHPエディターズ・グループ)など、平洲をテーマにした本を多く書いており、2015年には「細井平洲の経営学~『嚶鳴館遺草』に学ぶ」(志學社)も出版しています。

 童門さんは平洲の思想の根底にある、人の生きるプロセスをこう表現しました。

1. 自分の身を修め
2. 家庭を斉(整)わせ
3. 国(藩)をきちんと治め
4. 天下すなわち日本を平和に経営する

 童門さんは、これを現代に当てはめて「個人の自治」「家庭の自治」「地域の自治」「国家の自治」と解釈し、「自治」とは自分の利益のためではなく、他人や地域のために努力すること、そして自分のやっていることに対する責任があると訴えます。
 

平洲記念館にある童門冬二さんの著書コーナー。学芸員の宮澤浩司さんが手にする童門さんの直筆色紙には「恕」と書かれている(愛知県東海市荒尾町)

平洲が説いた「改革」のあり方
 「細井平洲の経営学」では、改革とは「モノの壁(物理的な壁)」「しくみの壁(制度的な壁)」「心の壁(意識の壁)」の三つがあり、一番変えにくいのが「心の壁」だとしています。

 平洲の「非常の時」という言葉を引用しながら、「非常の時には非常のやり方がある。まずトップが自身を改革すること。それが他の人々に対する模範になる」といいます。そして平洲にとって、改革とは何よりも「民のために行う」もので、それは今の国民主権にも通じるといいます。

 童門さんは「嚶鳴館遺草」から組織のリーダーや補佐の心構え、財政再建や人員整理のあり方、官僚主義への警句などを読み取り、最後の「しめくくり」で「平洲の人間愛に胸をうたれる」「平洲先生のように生きたい」と書きました。

 東海市の平洲記念館のホームページ(https://www.city.tokai.aichi.jp/bunka/1002738/1002753/1000015/)
では、「童門冬二の平洲塾」というコーナーで、童門さんの講義録などを読むことができます。
 

名鉄聚楽園駅前にある細井平洲誕生の地の石碑。後ろのロータリーには平洲の言葉が掲げられている(愛知県東海市荒尾町)

カゴメ元社長も深く敬愛
 愛知県東海市は、大手食品メーカー「カゴメ」の創業地でもあります。

 創業家出身で元社長の蟹江嘉信氏(1929~2012)は、平洲の顕彰会の会長も務めていました。

「多難な時代を曲りなりにも乗り切ることができたのは、苦しいとき、悩んだとき、壁にぶつかったときに、平洲の教え、なかんずく『先施』の二文字を思い出し、心を奮い立たせて歩んできたからです」と書き残しています。
 

細井平洲が督学(校長)を務めた明倫堂跡。名古屋城の南側、名古屋東照宮の境内にある(名古屋市中区)

尾張藩校にも大きな貢献
 名古屋市立大学の吉井信雄特任教授(77)は、全国の藩校や私塾を研究し、雑誌「地方財務」(ぎょうせい)に寄稿しました。細井平洲が尾張藩に果たした大きな役割に注目しています。

 1780年、尾張藩9代藩主の徳川宗睦(むねちか)が藩校の「明倫堂」を再興しようと、督学(校長)に招いたのが当時53歳の細井平洲でした。

 平洲は藩内の各地に出向いてのべ30万人以上の人々に講義したといわれ、わかりやすい逸話をちりばめた語り口が感動を呼んだと伝えられているそうです。

 明倫堂は明治時代の「明倫中学」に受け継がれ、現在の愛知県立明和高校につながっています。

 吉井さんは、童門さんも用いた「自治」という言葉を、「自分の足元を知り、評価する心」と考えています。

 平洲の教えを「地域の資源」として、いまを生きる人々が地元に誇りと愛着をもち、地域創生につなげてほしいと願っています。

(メ~テレ 山吉健太郎) 
 

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