「戦争が起きたら」北極圏の村にも届いた黄色い冊子
2024年11月23日 22:44
■北極圏の村にも届いた黄色い冊子
スウェーデンの首都ストックホルムから北へ900キロ以上離れた北極圏の村パヤラ。フィンランドとの国境に接するこの村で老後を過ごすベンクトォーラ・ヴィデクルさん(70)の自宅に今月18日、1通の郵便物が届いた。黄色い目を引くパンフレットが1冊。表紙の真ん中には、銃を持った迷彩服の女性兵士。
その背後には、スウェーデンの国産戦闘機「グリペン」が飛び、同国海軍が誇るステルス・コルベット艦が波を蹴けたてて進む。その一方で、子供に本を読み聞かせる女性の姿が描かれている。
タイトルは、「危機と戦争が起きたら」。
東西冷戦時代に人生の大半を過ごしたヴィデクルさんは、パンフレットを手に当時の緊迫した日々を思い出した。
■初版は第2次大戦の真っ只中
このパンフレットは、スウェーデン国防省傘下の行政機関であるMSB・民間緊急事態庁が作成し、今月18日から国内の520万世帯に配布を始めたものだ。
今回で第5版となるこのパンフレット。初版は、なんと80年以上前の第2次世界大戦中の1943年に遡る。欧州全土が戦火に覆われ、中立政策をとるスウェーデンのまわりでは、ノルウェーとデンマークがナチス・ドイツに占領され、フィンランドはソビエトと戦っていた頃だ。
その後、冷戦期に改訂が行われ1961年に第3版が発行されてからは、国際情勢の変化を受け発行が止まっていたが、前回2018年に久しぶりに第4版が発行された。
第4版の表紙をみると、家族が備蓄品を確認している様子が大きく描かれ、自然災害などへの備えに重点が置かれていることがわかる。軍事衝突への備えについても中盤以降に記載されているが、扱いはそこまで大きくない。今回の第5版はそれよりも10ページ以上増の計32ぺージとなり、軍事衝突に関する内容に重点が置かれ、冒頭に掲載されている。そのあとに、自然災害、サイバー攻撃、テロ攻撃などへの備えが、イラストとともにわかりやすく記載されている。
スウェーデン語版と英語版の冊子のほか、ホームページからダウンロードできるデジタル版では、アラビア語、ペルシャ語、ウクライナ語、ポーランド語、フィンランド語、ソマリア語など各国の言語版も公開されている。スウェーデンは欧州の中でも移民が多い国で、国内に住む全ての人が母国語で読むことができるよう配慮されているのだ。
■ロシアを見据えて…
「前回のパンフレットが発行された2018年以降、安全保障状況が悪化していることは周知の事実だ」とボーリン民間防衛相は新版発行にあたり語った。
発行したMSB幹部も「ロシアがウクライナに本格的に侵攻したことは大きな変化。(前版の)2018年も厳しい治安状況だったが、今はもっと悪化している」と2022年にウクライナ侵攻が改訂の主な理由であると語る。
奇しくも、発行の翌日の19日には、ロシアのプーチン大統領が、核ドクトリンを改定する大統領令に署名。核兵器の使用条件を大幅に下げ、直接の戦争当事国以外も核抑止の対象とした。
こうしたタイムリーな時期に新版が発行されたことについて冒頭のヴィデクルさんは、「政府が情勢をしっかり把握して、素早くこうした対応とってくれることは良いことだ」と語る。
スウェーデン国民の間でも今回の新版発行を行った政府を評価する声が多いという。
■「スウェーデンは決して降伏しない」
パンフレットの冒頭では、国民に対して、「国民のみなさん私たちは不確実な時代に生きています。現在、世界の片隅で武力紛争が繰り広げられています。(中略)このパンフレットでは、危機や戦争に備え、どのように行動すべきかを紹介しています。あなたもスウェーデンの緊急事態への備えの一部です」と呼びかけている。
また、「スウェーデンは他国から攻撃を受けても、決して降伏しません。抵抗中止を命じる情報はすべて偽りです。」との強いメッセージが目立つかたちで記されているのが印象的だ。
また、「世界的な脅威レベルが高まると、核兵器が使用されるリスクが高まる」として、核の脅威、攻撃に対する備えについても言及している。
■北欧各国でも同様の動き
こういった有事に備える呼び掛けは、北欧各国でも行われている。
●フィンランド https://www.suomi.fi/guides/preparedness
今月16日に「事態や危機への備え」と題する新たな危機管理ガイダンスを発表。費用と効率を重視してデジタル版のみ作成し、軍事紛争、サイバー攻撃、停電など項目ごとに詳細なマニュアルが掲載されている。寒さの厳しい土地柄、停電時は「窓を覆う。建物の中心部にすべての居住者を同じ空間に集め、ドアを閉めた部屋で過ごす」など寒さ対策も記載されている。
●デンマーク https://www.brs.dk/en/prepared/
「危機に備える」とのガイダンスを今年に入り更新。冒頭に「3日間」と大きな見出しを取り、危機が発生した際、自力3日間を乗り切るための備えを記載している。
●ノルウェー https://www.sikkerhverdag.no/globalassets/din-beredskap/brosjyrer-alle-sprak/dsb-egenberedskap-engelsk-web.pdf
「ノルウェーの緊急事態にあなたができること」戦争や危機などが発生した場合、国民が自力で1週間対処できるよう備えるよう促すパンフレットを作成し220万部を各世帯に配布。缶詰、パスタ、ペットフード、水、マッチ、ろうそく、救急箱、ヨウ素剤などを備えるよう呼びかけている。
■「平和は大切。しかし平和ボケはいけない」
●スウェーデン https://rib.msb.se/filer/pdf/30874.pdf
スウェーデンは、今年3月に32番目の加盟国としてNATO・北大西洋条約機構に正式加入した。
200年にわたる“中立・非同盟政策”を転換したかたちだ。
今回のパンフレットが発行された18日、スウェーデンの排他的経済水域で海底通信ケーブルが切断されていることが発覚した。当局はロシアを出港した中国の貨物船が関与した可能性について調べているという。
イギリス、フランス、ドイツなどの外相は「NATO、EU(ヨーロッパ連合)諸国に対するロシアのエスカレートするハイブリッドな活動は、多様性や規模において前例がなく、重大な安全保障リスクを生み出している」とする声明を発表した。
去年も海底ガスパイプが損傷する事案が起き、北欧以外でもイギリスやドイツで、航空便の小包が発火する事件が複数発生している。
イギリスのMI5・情報局保安部も、ロシアの関与を指摘するなど、ロシアがヨーロッパへのハイブリット作戦を強めていると指摘している(ロシアはヨーロッパのインフラに対する破壊工作を繰り返し否定)。
ロシアの侵攻から1000日が経過したが、ウクライナ戦争が終結する兆しは全く見えない。
むしろ核搭載可能な弾道ミサイルの発射などエスカレーションの一途を辿っている。
そして今、ウクライナやロシアの戦場から遠く離れた場所でさえも、いつどんな事態が起きるか予測がつかない状況となってきている。
「平和は大切。しかし平和ボケはいけない。パンフレットのタイトルをみて改めて思った」と語るビィデクルさん。
“備えあれば憂いなし”ではあることには違わないが、このパンフレットにかかれていることが、現実のものとならず、どうか杞憂に終わって欲しいと願ってやまない。
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