自衛隊基地の壁に残る「MP」の2文字 沖縄の基地負担へと続く「キャンプ岐阜」の歴史

2024年8月15日 19:17
岐阜県各務原市には現存する日本最古の飛行場があり、航空自衛隊岐阜基地として機能していますが、戦後すぐに米軍に接収され「キャンプ岐阜」として使われた時期がありました。当時を知る人たちの証言などから、今に続く日本の米軍基地問題が見えてきました。

キャンプ岐阜

 岐阜県各務原市にある航空自衛隊岐阜基地の歴史をひもとくと、旧陸軍が飛行場を建設したのは1917年のことで、5年後には隣に現在の川崎重工が航空機工場を、1927年には三菱重工が整備工場をつくりました。
 
 現在、岐阜基地に隣接する航空宇宙博物館に展示されている戦闘機「飛燕」は1941年の初飛行から終戦までの間、各務原でおよそ3000機が製造されました。
 

足立勘二さん(89)

米軍に狙われた「飛行機のまち」
 そんな「飛行機のまち」は戦時中、何度も米軍の標的となりました。1945年6月。2度にわたる大規模な爆撃で、200人以上が亡くなりました。当時、小学4年生だった足立勘二さん(89)はこう振り返ります。

「80年も前の話ですけど、つい昨日のように思い出すというのは相当怖かったんだろうなという気はしますね。1回目か2回目だったか、燃料庫に爆弾が落ちてものすごく真っ黒な煙で燃え上がって、夜になっても消えなかった。翌日午前中くらいになってやっと鎮火した。置いてあった燃料が全部燃え尽きちゃったんじゃないか」

 空襲だけでなく米軍機からの銃撃も鮮明に覚えているといいます。

「『きょうはえらい低いところを飛行機が飛んでくるな』と思ったら、ほんの100mくらい手前を飛んで行った飛行機を見たら、胴体にアメリカのマークがついていて、友達のお母さんが肩を撃たれて、麦を刈っていたばあさんが即死した。それまで『空襲は名古屋』だと思ってたけど、それからはものすごく神経質になった」
 

うっすら残る「MP」

「MP」の2文字が伝える米軍基地の名残
 終戦後の1945年10月、米軍は各務原の飛行場におよそ4000人の米兵を派遣し進駐を開始しました。新たに整備された「キャンプ岐阜」には娯楽用のボウリング場も作られたそうです。

 旧各務ヶ原飛行場で、現在の航空自衛隊岐阜基地には「米軍時代」の名残があります。赤茶色の倉庫の壁に、うっすらと残る「MP」の文字。「CAMP」の一部が消えた、ペンキの跡です。その下には「LAUNDRY」の文字も見え、当時、洗濯場として使われていたことが分かります。
 
 他の倉庫にも「HANDBALLCOURT」や「CAMP GIFU GYM」と書かれた跡が残っています。

各務原市教育委員会の西村勝広課長は「ペンキを上に塗っているんだけれども、それが剥げて下地が見えている。キャンプ岐阜になってから、文字を書き入れた。返還されて岐阜基地になってから、文字を塗りなおした。それが剥げて1つ下の文字が見えている」と話します。
 

宇野義雄さん(85)

米軍が街にやってきた
 基地の近くで理容店を営んできた宇野義雄さん(85)は米兵が各務原に来た日のことが忘れられないといいます。

「向こうの方から歩いて行進してきたね。頭は茶色だし目は青いし、初めはびっくりした」
 
 当時、父親が経営していた理容店には米兵も訪れ、交流があったそうです。

「お菓子をもらったりチョコレートをもらったり、本当にうれしかった。当時食べ物が無かったから、こんなうまいもの食ってるのかと思った」
 
 子どもには優しかったという米兵ですが…

「たまには兵隊に殴られた人もいた。そこまで覚えていないけどそういうことを見かけたこともある」
 
 同じく基地の近くに住む石黒功さん(82)は米軍の駐留で、新たな雇用や消費が生まれたと話します。

「モノがない時に雇用に恵まれ、モノに恵まれた。彼らは物量がある。ここら辺はすごく潤った」
 
 地域経済にとってプラスとなった反面、犯罪の発生や風紀の乱れなど、様々な問題も起きたという各務原。こうした状況が一変したのは1950年です。

 

キャンプ岐阜

返還から沖縄へ
 宇野さんは「朝鮮戦争が始まって、ここの兵隊がみんな朝鮮に送られることになった」と明かします。「キャンプ岐阜」の米兵は次々に朝鮮半島へ送られていきました。
 
 1958年、各務原の基地は米軍から全面返還され、街はその後、航空産業で発展しました。
 
 一方、各務原にいた米軍が移ったのは沖縄。今、沖縄には在日・米軍基地の7割が集中しています。

 

岐阜基地の壁

今に伝える戦争の傷跡
 航空自衛隊・岐阜基地の壁の一部は戦争中に爆弾の破片で穴が開き、中の鉄筋が見える状態になっています。

 新たな壁が設置された後も、あえてそのまま残されました。

各務原市教育委員会の西村課長:「戦争というものの生々しい傷痕を私たちが知ることができる現物なので、(残すことは)非常に重要で意義のあることだと考えています」
 
 
戦後79年の今に必要なこと
 飛行機と歩んできた、各務原の歴史。

 そこに光を当てることは今、沖縄が抱える基地問題を考えることにもつながります。

西村課長:「戦後の占領下にあった時代の各務原市と、現在の平和な時代の中の米軍基地と違いがあると思う。しかし、キャンプ岐阜があったころの各務原市の歴史を調べて理解し学ぶことによって、戦争、戦後、そういったものに対する考え方、認識、これからどうするかということを含めて、大変重要な学習のポイントになっていくんじゃないかと思う」
 
 戦後79年。大切なのは記憶を風化させないということ。

足立さん(89):「平和の大切さの一言に尽きると思う。語り継いでいくことによって、『もうダメだよ』と『おじいちゃんたちはこんなひどい目にあったんだから、あなたたちも戦争をやるとひどい目にあうよ。どんなことがあっても戦争はやめなきゃいけない』ということを伝えていけたら多少なりとも役立つかな」
 

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