原因不明の倦怠感や痛み「線維筋痛症」 理解を広めたいと活動する女子大学生に密着「まずは知って欲しい」

2024年10月16日 13:01
「線維筋痛症」という病名を聞いたことはありますか?病に苦しみながらも、「病気への理解を広めたい」と活動を続けている名古屋市の女性を追いました。

SNSで病気を発信する江夏明希さん

 名古屋市の江夏明希さん(24)。

 チャーミングな笑顔を見せる裏で、明希さんはいま、ある大きな病気と日々向き合っています。

 抱えている病気は「線維筋痛症」。

 健康だった人が突然、原因不明の激しい倦怠感や痛みに襲われる病気で、直接は命に関わらないものの、現在のところ完治させる治療法がなかなかありません。

 「1秒たりとも痛みが消えないので、ひたすらどこかしらが痛い。今は目が痛いんですけど、表面にガラスの細かい粒子や、破片が散らばっているという感覚」(江夏明希さん)
 

江夏明希さん(24)

「ある日」を境に生活が一変
 幼いころから、スポーツが大好きだった明希さん。

 保育士になることを夢見て、大学に入学。

 勉強にサークル活動、バイトも掛け持ちしながら充実した日々を送っていました。

 しかし、19歳の「ある日」を境にその生活が一変しました。

 「2020年4月7日。すごく覚えていて、突然の微熱から始まった」(明希さん)
 

1年後に「線維筋痛症」と判明

1年後に「線維筋痛症」と判明
 約2カ月にわたり微熱が続いた後、今度は関節から背中、脚と全身を痛みが襲うようになったといいます。

 血液検査などの数値にも異常はなく、整形外科や小児科など30以上の病院を受診。

 約1年後に、ようやく「線維筋痛症」と判明しました。

 「色んな検査をして、この世にある検査全部したというぐらい検査して。それでも何も異常がない、いろんな医師に『仮病』とか『気の持ちようだ』と言われ、『そんなのでここまで悪くなるわけないじゃん』と毎回思っていて、私の言っていたことは間違いじゃないし、信じてもらえるというか、(診断されて)本当にうれしかったです。うれし泣きした」(明希さん)
 

明希さんの母・敬子さん(59)

医師にすら理解されない病気
 ずっと寄り添ってきた母親の敬子さんは、当時をこう振り返ります。

 「いろんな先生のところに行くけど、頭から話を聞かない先生もいる。何軒も何軒もそういう思いをしながら家に帰ってきて、はけ口がなくて(明希さんが)泣き叫んだりとか」(明希さんの母・敬子さん)

  過去には医師にすら理解されず、つらい日々の連続だったといいます。
 

テレビから聞こえてきた言葉がきっかけに

「生きる意味が見いだせなかった」
 保育士を目指し入学した大学も、2年生の春から授業を受けられなくなり、その後、退学することに。

 「生きる意味が見いだせなかった」という日々を変えたのは、テレビから聞こえてきた、ある言葉がきっかけでした。

 「障害がある子どもが言っていた言葉で、『みんなに出来て自分に出来ないことがあるならば、障害を持った自分だからこそ逆にできることがある』。このままずっと『痛い痛い』というだけの生活をしてたら何にも変わらないし、線維筋痛症になった自分だからこそ出来ることを探してやった方がいいんじゃないかって」(明希さん)
 

去年8月から障害者専門芸能事務所に所属

メディアを通じて知ってほしい
 厚労省によると、全国に約200万人の患者がいるとされていますが、症状に個人差が大きいため、理解が進んでいないのが現状です。

 メディアを通じて、「まずは線維筋痛症を知って欲しい」。

 その一心で、去年8月から障害者専門芸能事務所に所属し、活動を始めました。

 明希さんは、企業のイメージ映像への出演などの仕事に加え、SNSで日々発信を続けています。
 

今年4月、退学した大学に復学

今年4月、退学した大学に復学
 この日、明希さんが訪れたのは、退学した大学です。

 明希さんは今年4月、退学した大学に復学しました。

 明希さんの事情を知った教員らが、リモートでの課題提出などを特別に認めることで実現。
 

東海学園大学 金津琢哉先生

学ぶことが阻害されるのは、あってはならないこと
 この日は、春学期お世話になったという先生に、あいさつをしに来ました。

 「一時はどうなるかと泣く泣く退学して…」(明希さん)
 「あの時、何も出来ず申し訳なかった」(東海学園大学 金津琢哉先生)

 退学時は心残りからか、涙を流したという先生。

 「車いすとか心がちょっと安定しないという状態で、学ぶことが阻害されるというのは、あってはならないことだと思っている」(金津先生)
 

母と一緒に向き合ってきた

背中を押してくれたのは、母の存在
 背中を押してくれた存在は、先生だけではありません。

 「母がいなかったら、私は生きていないです。一番の味方だし、当初から医者に何を言われても一番信じてくれたのは母」(明希さん)

 理解されない苦しみも、耐え難い痛みも、一緒に向き合ってきました。

 「一番私がそばにいるので、私が一緒に戦っていかないといけないなと思って。朝、目をパッと開けると『痛い』から始まるので、痛みのないさわやかな朝を迎えさせてあげたいなという希望。大変でした、本当に。この4年間本当に大変だったね」(敬子さん)
 

「希望を持って生きてほしい」と発信を続ける

「希望を持って生きてほしい」
 発症から約4年。今も有効な治療法を探し求めながら、毎日20錠以上の薬を飲み、少しずつ痛みを和らげながら過ごす日々。

 それでも――

 「今病気になって好きなことをやめなきゃいけない、できないとなっている人に、元気を出してくれたら、エールを送ることができたらすごくうれしいなと思う」(明希さん)

 明希さんは、チャームポイントの笑顔とともに、「希望を持って生きてほしい」ときょうも発信を続けています。
 

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